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阿保親王

阿保親王社・厳島神社

阿保親王社・厳島神社

阿保親王

阿保親王

歴史・由来:

当社の阿保の名は、平安時代初期の第五十一代平城天皇の第一皇子である阿保親王に由来し、
拝殿の北側には阿保親王を御祭神とする親王社が建てられています。


阿保親王がこの地に居住されていたと伝えられており、境内には阿保親王住居址の石碑が建てられています。


阿保親王は、大和国三条坊門の南高倉の西、磯上筒井筒(奈良県奈良市)の地に住まわれていましたが、承和元年(834年)に河内国丹比(たじひ)郡田坐(ぐんたざ)のこの地に別荘を造営したと言われています。また阿保親王の母は百済系の渡来氏族である葛井氏の葛井宿禰(ふじいのすくね)藤子(ふじこ)でした。その葛井氏は飛鳥時代より河内国志紀郡(しきぐん)長野(ながの)郷(きょう)(大阪府藤井寺市)を本拠としていたため、葛井氏の氏寺である葛井寺との関わりがあったためと考えられます。

阿保に建てられた邸宅の面積は約千坪にも及び、永く阿保親王の子孫が居住されたといわれています。

阿保親王の性格は謙譲にて、その才能は文武に秀で、紡歌に優れていたとされています。妃は桓武天皇の皇女である伊都内親王で、『伊勢物語』の主人公であり六歌仙の一人としても有名な在原業平の父親としても知られています。

当時の阿保の地は丹比郡田坐と呼ばれ、水利の便が悪く干害地であったため、農民たちは苦しんでいたそうです。そこで、親王は邸宅の中庭の池を農民に開放し、更に灌漑用に改造され農業生産を奨励されましたので、阿保の地は豊かになったとされています。人々は親王の人徳を慕い、邸宅の池を親王池(稚児が池・棒池)と呼ぶようになったとされています。

【親王池の伝承】

親王池は、稚児が池とも俗に棒池とも呼ばれていた大池でした。

伝承によると、阿保親王の末裔に在原信之(ありわらののぶゆき)という人がいましたが早世してしまいました。
その子である幸松麿(こうまつまろ)は母と共に阿保に住んでいました。
家は貧しかったのですが、孝養を尽くしていました。

ある時、母が眼病を患ったので、葛井寺(大阪府藤井寺市)の観音さまに自分の身を以て願掛けをしたのです。
その甲斐があって満願の日に母の眼病は治ったのですが、幸松麿は観音さまのご恩に報いるため、住んでいた近くの池に自らの命を投じたということです。
それは長和三年(西暦1014年)六月十五日、幸松麿十三歳のことでした。

それ以降この池は『稚児が池』と呼ばれるようになりました。
更に、その幸松麿の孝養を哀れみ、池中に卒塔婆を立ててその冥福を祈ったとされています。
その稚児の塔婆にちなんで『棒池』とも呼ばれてきました。

また、その幸松麿が阿保親王の子孫であったことからこの大池は『親王池』と呼ばれてきたとされています。

現在では親王池は埋め立てられていて、その姿を見ることはできません。